“わたし”が自分の身体について持っている情報は驚くほど少ない。
外面の一部分しか自分の眼で見ることができないし、
他者が“わたし”を“わたし”として認識してくれるその顔は、
“わたし”本人だけは直接視認することができない。
“わたし”にとって“わたし”は
全体像が見えない不可解な存在であり、
可視性が引き裂かれた“わたし”は
想像によって埋めるしかない空白の存在である。
そんな“わたし”の空白を補完するために、
鏡に映った鏡像の“わたし”や、
写真や動画の中の画像・映像の“わたし”、
他者を鏡として見返した想像の“わたし”など、
断片的な無数の虚像をパッチワークのように縫い合わせ、
実像を超越した自己像としての〈身体〉を作り上げる。
こうしてできた“わたし”の自己像としての〈身体〉は、
様々なパーツを縫合された〈衣服〉と構造的に同じだ。
“わたし”のセルフイメージとしての〈身体〉は、
“わたし”が纏う第一の〈衣服〉なのである。
だからこそ、お洒落や身だしなみの一環として
耳や舌に穴を開け、髪の毛やヒゲを整え、
爪に色を塗り、肌に化粧を施す等々、
〈身体〉をまるで〈衣服〉のように加工したり装飾したりするのだろう。
しかし、“わたし”の自己像としての〈身体〉は
つぎはぎだらけで非常にほころびやすい。
内なる自然とも言われる〈身体〉は変化し続け、
なかなか“わたし”の思い通りにはならない。
そんな脆い“わたし”の〈身体〉の輪郭を補強してくれるのが
“わたし”の第二の皮膚としての〈衣服〉だ。
〈衣服〉を着用することによって
“わたし”の可視性を恣意的にコントロールすることができ、
どのような〈衣服〉を選ぶかによって
“わたし”の内面をも映し出すことができる。
制服で身を包むことにより
“わたし”に社会的な意味や役割が付加される。
“わたし”の第二の皮膚としての〈衣服〉は、
〈身体〉に纏うものであると同時に、
“わたし”を纏めるものであると言えるだろう。
“わたし”という存在は
〈身体〉≒〈衣服〉と切り離して考えることはできず
“わたし”の境界線は
〈身体〉と〈衣服〉の二重構造の皮膜=《 》
の間で絶えず揺れ動く。
《 》の揺らぎの中を踊るように
たゆたう“わたし”の境界線の波に身を委ね
社会的文脈に合わせて意味や役割を変化させ
着替え続ける“わたし”を楽しみながら生きていたい。
そんなわけで、僕は服が好きです。
テニヲハヲコト、